最近の屋外バフ・マスクランを巡る流れ
またしても更新に時間がかかってしまいました。
すみません。
緊急事態宣言が全国で解除され、5月下旬からバスクランしている人は明らかに減っています。
それでよいと思います。
後にも述べますが私は屋外バスクランは「過剰な自粛」と考えています。
以下からも屋外バスクランはエチケットやマナーではなくなっています。
スポーツ庁
「安全に運動・スポーツをするポイントは?」 (5/22)
https://www.mext.go.jp/sports/content/20200522-spt_sseisaku01-000006777_2.pdf
「マスクを着用するかどうかは、運動 ・スポーツを行う方の判断とします。」
やっとバスクランの推奨がなくなりました。
やっとシロスケに追いついてきました。
「感染者が減ったからバスクランの重要度が下がった」という指摘は不適切です。「感染者の多寡に関わらずバスクランが不要」ということなのだと考えてよいと思います。
アフターコロナではなくウィズコロナを意識したガイドラインと考えられるためです。
ですから、今やめている方はコロナ第2波が来てもバスクランを再開しないでください。
もちろんコロナ感染予防で重要な屋内3密を避けることは続けなければいけません。
ランニング学会も5/27付でバスクランの推奨度を落としています。
ただし、スポーツ庁もランニング学会もなぜそこを変更したのか、どのような議論があったのかについては述べません。
結局そのような団体です。
ところで、バスクランをされている方はこれらの情報をご存じでしたか?
そして、あなたにバスクランを勧めたメディア、SNS、知人はこれらの情報を教えてくれましたか?
屋外バスクラン問題について思うこと
- コロナウイルス感染の恐怖・不安が広がる。
- ランナーが飛沫を飛ばしている発表が話題になる。
- ノーベル賞教授がマスク・バフを着用することがマナー、エチケットと言う。
- 有名ランナーがマナー・エチケットという言葉に迎合する
以上の流れでバスクランが広がりました。
・例の発表(以前の記事をご参照下さい)をどのように読んでもランナーが感染源になるとは解釈できない。
・ランナーが感染源になった症例は未だに報告されないし、そもそもバスクランにも感染を防ぐ根拠もなにもない。
にも関わらず、急速にバスクランが広がった一番の原因は
ランナーの多くが情報の不正確さを見抜けず、メディアやSNSの同調圧力にのみこまれたからです。
・ノーベル賞の教授が言っているから
・英語の発表でなんか飛沫がかかっていると言っていたから
・テレビで言っているから
・SNSでみんなそのようにやっているから
どれも、バスクランをする根拠になりえません。
・バスクランしないと周囲の視線が怖い。
・自分が少し我慢して丸くおさまるくらいならバスクランする
そうして生まれたバスクランナーが周囲にあたえる印象は「ランナーが感染源になる(かも)」という偏見です。バスクランナー自身がこの偏見を持っている可能性も高あります。
前編でお伝えしたとおり、偏見によって生み出されるのは差別です。
現実に、私も含め、マスク無しランナーはバスクランナーや散歩の人にすれ違いざま舌打ちされたり、罵倒されることいった差別を受けたことがあると思います。
バスクランが感染予防に役立っている科学的根拠は何一つありません。
それだけでなく、バスクランは「ランナーが感染源になる」という偏見を助長し続けます。
現在新規感染者が全然出てない都道府県にはコロナウイルスがいません。
バスクランをしても何の意味もありません。
雨の降っていないところへ傘をさしても意味がありません。
新規感染者のいる都道府県でもバスクランはやっぱり意味がありません。
もともと屋外での感染は指摘されていないからです。
バスクランは、はじめからゼロリスクのところへさらに予防策を強化している、明らかな「過剰な自粛」です。
<バスクラン問題の本質>
私が考えるバスクラン問題の本質とは、「ランナーたちが取捨選択する情報を盛大にミス」し、それにより生じた「偏見」が生み出した「過剰な自粛」だと考えています。
偏見は一度定着すると、なくすのが本当に難しいです。
前回紹介したとおり、人類の歴史では感染症と偏見・差別は密接な関わりを持っています。
時代は変っても、歴史は繰り返すものです。
人の基本的な性質は変わらないし、変えられないからです。
<バスクランしている人に伝えたいこと>
バスクランする理由は人それぞれと思います。
何度もここでお伝えしているとおり、バスクランするかどうかは個人で判断して下さい。
しかし、バスクランを推奨するまともな団体はもうありません。
バスクランを続けるべき根拠が、本当に、もう、どこにもないのです。
にもかかわらずバスクランを続けることは、「ランナーが感染源になる、なっている」、「これからもバスクランを継続すべき」という誤ったメッセージを発信し続けます。
サッカーも野球もそのほかのスポーツもマスクなしで練習しているのに、ランナーだけバスクしているのはもう滑稽です。
ゼロリスクなところにさらにゼロリスクを求める、そのような姿勢でどうして失った練習や試合を取り戻すことができるのでしょうか。
私には過剰な自粛を強いる社会が学生スポーツの大会を中止に追い込んでいるように見えます。
私たちの中の鬼
少し昔の歌なら
その船を漕いでゆけ
おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に
おまえのオールを任せるな
「宙舟」TOKIO
最近のはやりなら鬼滅の刃の序盤にこのようなシーンがあります。
主人公を助けた冨岡義勇が主人公にブチ切れます。
その続きは
「生殺与奪の権を他人に握らせるな! みじめったらしくうずくまるのはやめろ! そんなことが通用するなら お前の家族は殺されていない! 奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が 妹を治す?仇を見つける? 笑止千万!! 弱者には何の権利も選択肢もない 悉く強者にねじ伏せられるのみ!! 妹を治す方法は鬼なら知っているかもしれない だが鬼共がお前の意思や願いを尊重してくれると思うなよ 当然俺もお前を尊重しない それが現実だ!!!」
鬼滅の刃 JC1巻
「鬼」とはものものしい表現です。
たしかにマスク無しランナーを差別してくる人は鬼に見えますが、もうそれは置いときましょう。
鬼は不安や恐れの感情として私たちの中にいます。
不安や恐怖にかられてよく知らないままに物事を判断してしまう。
誰かを守っているつもりだったのに、いつの間にか傷つけている。
そのままではいけないと考えながらも傍観している。諦観している。
どうして自分の居場所を、大事な物を奪われて、そのままにしているのか。
誰かに尊重されるのを待っているのか。
私には理解できません。
私には皆さんの中の鬼は倒せないかもしれれません。
キャラ的には、鬼に一番最初に見つかって、「鬼がでた、、、」とかいってやられるキャラがお似合いです。
ノーベル賞もないから説得力もないし。
でも、医学的な判断で、線引きをする、判断をすることで鬼の存在に気づいてもらうくらいはできるかもしれないと信じています。
あとがき
アスリートだけではなく、皆さんの中には過剰な自粛を強いられている方もおられると思います。
個人的な意見としてはグレーゾーンはどんどん自粛を解除してもとの様式に戻すべきです。
そうでなければ感染のリスクの正確な評価ができないからです。
もちろんもうアウトになってるやつは自粛解除してはいけませんよ。
自粛を続けなければいけないところは続けるべきだし、そうでないところはもとのとおりやる、その正確な判断が必要です。
目に見えない物事を認知して判断することには、ものすごく難しいことだし、責任が伴います。
自粛を解除して新しい生活様式が定着していく中で「人の中の鬼」の存在を意識する必要があります。
鬼は不安、恐怖、偏見、差別、同調圧力に変化して私たちの中に確かに存在します。
鬼の存在を明確にすることや鬼に打ち勝つのに、私が修行をつづけている「医の呼吸」が役に立つと信じてやみません。
鬼滅の刃の作中では鬼は手強く、一人の力では首を落とすことができず、何人も束になってやっと一人の鬼を倒していきます。
コロナの鬼も力を合わせないと倒せません。
最終的には十分な検討がなされないまま、空気感だけでオリンピックも中止に追い込まれるのではと危惧しています。
私はコミックス派ですが週刊誌ではもう完結しています。
最終巻楽しみですね。
読んだことない方は1巻だけでもぜひ試して下さい。